宝暦治水薩摩義士伝

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最 後

多くの犠牲を強い、また藩財政を圧迫するなど工事の完成後平田靱負はその責任を負い、
 「住みなれし 里も今更 名残にて 立ちぞわずらう 美濃の大牧」という辞世の歌を残し
52歳の生涯を閉じました。
常栄寺に葬られている黒田惟右衛門清唯は、宝暦4年7月7日、24才の若さで割腹したとされている。その理由は、幕府に対する反抗心からだと推測される。前述のように薩摩藩の死者を葬ることを禁じていたこと、さらに、割腹自殺者であることなどから、ひっそりと葬られたことが、当時の戒名「宗言信士」からも明らかである。現在の戒名「白浪金龍居士」と改められたのは、つい最近のことである。また、最近、惟右衛門の他に5名の黒田一族の霊が葬られていることが分かったので、現在、常栄寺には6名の薩摩義士の方が埋葬されているということである。

宝暦治水
 薩摩義士伝

惟右衛門の命日である7月7日には、町主催の慰霊祭近年、薩摩義士の方々の業績が見直され、そのため、鹿児島県と岐阜県が姉妹県として交流することとなった。毎年8月には、大垣青年会の主催で鹿児島市と大垣市の中学生の交流会があり、薩摩義士の足跡をたどると言うことで常栄寺にも立ち寄られる。また、同じ頃に関ヶ原戦績踏破隊の方々も立ち寄られる。

                                        常栄寺:岐阜県海津市平田町今尾