宝暦治水薩摩義士伝

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屈辱の割腹


総奉行平田靱負以下数百名は、宝暦4年1月29日、美濃へ向かった。養老町大巻の鬼頭兵内の屋敷に着いたのは2月であった。
ここを本小屋とし、羽島市石田・安八郡大藪・海津郡金廻りと太田等に出小屋を設けた。薩摩藩からの工事参加者947人。雇った人を加えると、2000人を数え、工事は180ヶ村に及んだ。
ことに大槫川洗堰と油島のしめきり堤工事【長良川と揖斐川の分流工事】は難工事であった。
特に、故郷から遠く離れた知らない土地で故郷のためにもならない難工事を行わねばならなかったこと・地域住民並びに幕府の役人方の協力が得られなかったこと・武士であるがゆえのプライドと裏腹の慣れない肉体労働等工事に関係した薩摩義士の方々の苦労は大変なものであったと想像される。

宝暦治水
 薩摩義士伝

幕府に対する反発による割腹者並びに不衛生な現場での重労働による病死者は現在分かっている範囲で94名【割腹61名・病死32名・人柱1名】である。
この人数は、明治になってから寺の過去帳、位牌・墓標等によって分かったのであるが、当時幕府は寺が薩摩藩の死者を葬ることを禁じていたので、過去帳にも記載されず、位牌も墓標もなしでなしで葬られたり、寺以外の所に葬られたものもあるかもしれない。戸板にのせて川に流したという話も伝わっている。