宝暦治水薩摩義士伝

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決 断


宝暦3年8月に数十年ぶりの大洪水が起こり、これ以上そのままにしておけなくなり、12月25日に、治水工事の御手伝い普請を薩摩藩【今の鹿児島県】に命じた。薩摩藩の江戸留守居役は突然の命令に驚き、すぐ早飛脚を出した。1200qの道を走り、14日後の1月9日、鹿児島に到着した。藩主島津重年は重臣を集めて大評定を行ったが、この命令を受けるかどうかで藩論がまとまらない。最後に、家老平田靱負の発言が受け入れられ、この難工事を引き受けることになった。

宝暦治水
 薩摩義士伝

幕府からは、工事の詳細はすべて現地で指示する、工費は14万両【一両を2万円とすると約28億円】程を用意するようにとだけで、細部は何もわからなかった。当時、薩摩藩は多くの借金があり、財政はとても苦しかった。そこへ御手伝い普請を受けたのである。「いかにして工費をつくる」が一番の問題であった。藩では、藩債や献納金を募集し、小額な金までも集められる物はすべて集め、その上、大阪で多くの借金をして資金を作った。この外に藩費節約令を出し、工事の終わり頃には人頭税7倍、牛馬税3倍、船税50倍となり、藩士の給与は大幅に引き下げられた。薩摩の人々が、困難に耐えたのは想像にあまりあるといえる。工事後も借金の返済に長い間苦しむことになる。