宝暦治水薩摩義士伝

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幕 命


宝暦【宝暦3年は1753年】の頃までに輪中の人々は、洪水を防ぐ工事を毎年行い、幕府も大名に普請をさせたが、あまり効果がなく、毎年の水害による凶作で苦しんでいた。
このため、輪中の代表が、幕府の費用で本格的な治水工事をしてもらうように度々願い出ていた。 幕府は治水工事の第一人者であった井沢弥惣兵衛を美濃郡代兼帯とした。
井沢は木曽・長良・揖斐の落  差の影響をなくして、海へ水を早く流す三川分流計画を取り上げようとした。たまたま、宝暦3年8月に数十年ぶりの大洪水が起こり、これ以上そのままにしておけなくなり、宝暦【宝暦3年は1753年】12月25日に、治水工事の御手伝い普請を薩摩藩【今の鹿児島県】に命じた。

宝暦治水
 薩摩義士伝

 ◇どうして薩摩藩に御手伝い普請をさせたのか◇

薩摩藩は、関ヶ原の合戦で西軍方【豊臣方・石田三成方】であり、幕府【徳川家】の敵であった。
関ヶ原合戦時の藩主島津義弘は敗戦者であるが、敵中から家康の本陣を突破し近江から伊賀、奈良をへて堺から船で薩摩に帰った。

この剛毅不屈の精神は今日も「関ヶ原を忘れるな」の言葉となって困難に当面した時の教えとして薩摩に生きている。家康としては長蛇を逸したのであったから、戦後処理で徹底的な処分を課したかっただろうが、参勤交代を受諾させるだけで妥協した。

性剛胆にして国富み、武備整い、地は遠隔の島津に対してはそれが精一杯のことであったろうが、幕府にとってはなんとしても残念なことであったろう。以来77万石第2の大外様大名島津は幕府にとって一大強敵のような存在であったのだろう。それが8代将軍吉宗に至ってようやく政略結婚にまで持ち込み、次の家重の代にこんどの御手伝い普請を課したのであるから、家康以来の恨み思い知れといった苛酷なものであったと思ってもよかろう。それかあらぬかこの普請は薩摩征伐とも言われている。その後、幕末になり、関ヶ原合戦の西軍方の薩摩・長州【毛利氏】に幕府が滅ぼされるのは偶然ではないだろう。